江戸押絵羽子板職人のおばあちゃんが語る、約40年間の「負けてたまるか!」の生き様
かっこいい先輩に学ぶ!長く働き続ける理由
江戸押絵羽子板職人 新田三千惠さん
戦前から浅草の羽子板市に出店し、江戸押絵羽子板を製造・販売する東京・葛飾区の「南川人形店」。亡くなった3代目のあとを継いだ4代目、葛飾区認定伝統工芸士・南川美子さんの右腕として働くのが、同じく伝統工芸士の新田三千惠さんです。仕事を始めて約40年経った今でも、唯一のパート従業員として、当初と変わらずに仕事を続けています。その足跡をたどりながら、働き続ける“理由”をおうかがいしました。
本当は一生専業主婦でいたかった(笑)
学生の頃の私の夢は、お嫁に行って専業主婦として暮らすことでした。それなのに、一生働き続けることになっちゃって、人生はそう思った通りにはいきませんね(笑)。
私は中学卒業と同時に集団就職で新潟から上京し、親戚の勤め先を紹介され、時計メーカーに入社。掛け時計を作る仕事に4年ほど携わりました。
20歳で結婚してその会社を退職し、2人目の子どもが生まれた23歳のときのことです。大工である夫が作業中にケガをして、1カ月間動けなくなりました。ケガ自体はそこまで重いものではなかったのですが、そのとき「自分も仕事をしなければ、この先家族の生活を守ることができなくなるのでは……」と、焦っちゃって。夫がまたいつケガをするかも分からないし。
そんな切羽詰まったとき、たまたま駅前で「南川人形店」のパート募集の貼り紙が目にとまりました。仕事を決めたかったので、すぐに応募したんです。
女性に理解がある勤務先に助けられた
「南川人形店」で働く女性は全て9~17時までのパートタイマーで、当時は私を含めて7~8人ほどいました。働き始めた当時から、南川さんご夫妻は子育てにとても理解があり、子どもが風邪を引いたときには、「連れてきて、店の座敷に寝かせておけばいい」、私が仕事と家事、子育てに疲れているときには、「少し休めば」とも言ってくださいました。こんなにありがたいことはありませんでしたね。
妊娠・出産のときも休ませていただき、安心して働くことができたおかげで、私は28歳までに4人の子どもに恵まれました。仕事と家庭を両立させるにはぴったりの条件だったことが、長く続けられた要因の一つだと思います。
70個ものパーツを一つに丁寧に組み上げる
押絵羽子板とは、芸者や歌舞伎役者などを羽子板の上で立体的に表現したものです。衣装になる部分を押絵と呼ぶんだけど、厚紙に綿をのせて着物地でくるみ、裏から電気ゴテを当てのりでとめた細かなパーツを重ねて作っていきます。
かんざしや花飾りなどの装飾品と桐の羽子板は、別の職人さんが作ったものを取り寄せていますが、押絵そのものはもちろん、その押絵に高さを出すために裏に貼る“枕”など、合わせて60~70個ものパーツを板の上に組み上げていきます。“釘打ち”という最終工程までを任されているので、失敗の許されない責任重大な作業です。
パーツを組み上げるときには押絵を汚さず、“面相師”と呼ばれる職人さんが描いてくれた顔がよく見えるようにと、慎重な作業が続くので、一瞬も気を抜くことはできません。パーツに関わった人、全ての職人さんの気持ちがきれいに一つにまとまるように。そんな想いで作っています。
江戸押絵羽子板職人になったのは想定外
ご主人は昔気質の職人。手取り足取り教えてはくれなかったので、技を見て盗んで、自分なりに仕事を覚えていきました。口数の少ないご主人でしたが、私のやり方を見かねたときには「こうしたらいいよ」と声をかけてくれることもありましたね。
その先代がこだわっていたのは「表からだけではなく、隙間や横から見ても美しい仕上がり」。パーツの底上げをする木材の“枕”は、木肌を隠すため白い紙をきれいに巻くなど、裏側にも手間をかけていたのです。その“ごまかしなし”の精神がかっこいいと思いましたね。
はじめはご主人みたいにできるように、とがんばっていましたが、パート従業員の高齢化などで人数が徐々に減っていき、その後ご主人が亡くなったときには、「伝統の技を絶やすわけにはいかない」という気持ちが芽生え、職人として生きることを決意しました。
それが伝統工芸士として認定されるに至り、いつしか「自分がどこまでやれるのか試したい」という気持ちになったんでしょうね。本当は専業主婦になりたかった私が、たまたま「南川人形店」で雇ってもらうことになり、長く続けているうちに職人って呼ばれるようになっただけなんです(笑)。
亭主関白の夫と徹底的にぶつかった30代
仕事のやりがいは、北海道から九州・沖縄まで、全国のお客様が親子二代、三代と買いに来てくださることです。羽子板は本来、幸せを願って親から子へ、子から孫へ贈る縁起物。自分の作ったものが人の手に渡って大事にされるなんて、幸せなことです。
仕事自体は大変ではありますが喜びも多く、お金では得られないものをいただいてきました。でも、つらかった時期はありました。それは「妻は家にいるべき」と言い張る、典型的な亭主関白である夫との闘いでした(笑)。
30代の頃がいちばんきつかったですね。「仕事はいつ辞めるんだ」と言われてケンカになり家を飛び出し、店へ来て奥さんになぐさめられ、気持ちを落ち着けてはまた家に帰る、ということも、正直何度かありました。
仕事・夫・家庭の板挟みになるたび、「負けるもんか!」と強くなっていったんですね。絶対に夫に文句を言われたくなかったので、家事も育児も完璧にしました。「私も一生働くから、あなたも一生働いてね!」って威張ってはいますが、そんな今が1番幸せです(笑)。
20~60代まで走り続けることができたのは、この仕事場があってこそ。“自分の居場所”があったからこそ家庭を守り、子どもを育てることができたと感謝しています。
「南川人形店」を奥さんと2人で守っていくのが使命
自分がつらかった時期を支えてくれたのが、南川さんご夫婦でした。南川さんは私たち夫婦の衝突を何度もなだめてくださっただけでなく、羽子板市の小屋を建てる仕事など、私の夫の仕事まで世話してくださって……。だから恩を返さなくてはいけないのです。
2009年にご主人が亡くなってからは、それまで裏方を担当していた奥さんが後を継ぐことに。複数いたパートさんもすでに引退されていたので、私と奥さんの2人だけで羽子板を作ることになりました。
お互いに苦難を乗り越えて、2011年に奥さんが、翌年には私が伝統工芸士に認定されたのは、本当に嬉しいことでした。葛飾区認定の伝統工芸士は68人いますが、そのうち女性は南川さんと、私を含む3人だけなのです。
押絵羽子板は、日本舞踊や歌舞伎を題材にした「女物」と、歌舞伎役者や歌舞伎の演目を題材とした「男物」があります。制作は「女物」が多いのですが、1~2月は押絵に使う着物地を選ぶところからスタートします。毎年「今年はどんなデザインで作ろうかしら」と奥さんと相談して、生地問屋さんへ反物を一緒に見に行きます。
伝統的な正絹を使うだけではなく、ほかの羽子板にはない絞りの着物地を使ったヒット商品を思いついたのは奥さん。同じものだけを作り続けるということではなく、「何が売れるか」、いつも奥さんと話し合っています。押絵のように布地を貼った、ノートの表紙も作って卸していますし。これ、伝統工芸品を扱っているお店で売っているんですよ。
こうして昔を振り返ると、今は女性が活躍できる仕事の選択肢も多くて、チャンスの多い時代。だからといって「仕事、仕事」となってしまうのではなくて、家庭もいっそう大切にしてほしいと思います。家事も仕事も長く続けていれば、それが自信になり、やがては生きる喜びにもなります。途中であきらめず、やり続けられるかどうか。「負けてたまるか!」精神が大事ですよ(笑)。
新田三千惠(南川人形店勤務・葛飾区認定伝統工芸士)
1955年生まれ。新潟県新潟市出身。23歳のとき南川人形店にパートとして勤務を始める。3代目・南川行男さん(節句人形工芸士・東京都認定工芸士・葛飾区認定工芸士)のもと江戸押絵羽子板制作の技術を習得。2012年、葛飾区が認定する伝統工芸士となる。現在、同じく葛飾区認定伝統工芸士であり4代目を継いだ妻の南川美子さんとともに、伝統の技を守り続ける。4人の子ども、2人の孫を持つ。
(インタビュー/兼子 梨花 構成/風来堂 撮影/清水信吾)