創業200年の喜多酒蔵・九代目候補は27歳の女性!「さらに日本酒人気を高めるには、女性ならではの感性を」
意外な業界・職種で活躍!イマドキ女子の多様なワークスタイル
喜多酒造 喜多麻優子さん
良質の酒米と雪解けの名水に恵まれた滋賀県。喜多酒蔵は、江戸末期の文政3(1820)年、初代・喜多儀左ェ門が酒造りを始めて以来、八代続く老舗蔵元です。三人兄妹の真ん中で、大学卒業後は、外の世界も経験しようと大手企業に就職。でも実は、子どもの頃から「蔵元を継ぐのは自分」と心に決めていたという喜多麻優子さん。酒を醸す現場や、伝統的な酒造りを学ぶ日々についておうかがいしました。
九代目を継ぐには、外での勉強が良い経験に
■「蔵元を継ごう」と決めたのは、いつ頃ですか?
物心ついた頃から「父の跡は、自分が継がなくては」と思っていました。江戸時代から続く蔵元に生まれ、酒造りの現場を間近に見ながら暮らしていて、「代々続く伝統を、残していきたい」という気持ちが、自然と芽生えていましたね。
明確に意識したのは、高校生ぐらいですかね。私には兄と妹がいるのですが、長男である兄は、早くから「家業は継がない」と宣言していて。妹も、そのつもりはなかったようです。
先々代、六代目にあたる祖父は38歳と早くに亡くなったのですが、その時、父はまだ中学生。蔵元の社長はしばらく祖母が務めたのですが、当時の蔵は女人禁制で酒を造る蔵の中には入れなかったそうです。
でも、今は最早そういう時代でもないし、女性の杜氏さんもそこまで珍しくはありません。だから、将来の経営にも役立つようにと、大学では経済学を専攻しました。
今思い返してみると、大学時代は私の人生で唯一、ほとんど家業のことが念頭になかった時期かもしれません(笑)。キャンパスが京都で、家から離れて下宿していたのですが、競技ダンスにハマってしまって。大会で入賞したこともあるほど、熱中していましたね。
■卒業後は、すぐに実家に戻ってきたんですか?
いえ、醸造酢メーカーのミツカンに就職しました。父から「外の世界でしごいてもらえ」と言われて。自分でも営業職を経験しておきたかったんです。
酢も同じ醸造業だし、違う畑で勉強するのも良い経験になるはず、と思って。営業担当として名古屋に配属されて、2年半、毎日のようにスーパーを回っていました。ときには、販促イベントで店頭に立つことも。
その後、日本酒の販売に関わる業務も経験しておきたかったので、東京の酒卸さんにお世話になりました。約1年間、あちこちの蔵を回ったり、商品の勉強をさせていただきました。
首都圏はやはり扱う商品数も多く、売れ筋とか業界のトレンドといったリアルな情報に触れることができたのは、良い経験でしたね。
その後、実家に戻って家業を手伝うようになったのは、2015年の秋からです。
販売だけでなく、酒造りの現場を知ってこそ
■そもそも「蔵元」と「杜氏」は何が違うんですか?
蔵元は、酒蔵の経営者ですね。杜氏は酒造りの現場の最高責任者です。
杜氏さんは元々、寒い地方の農家が農閑期に行った季節労働。滋賀県の酒蔵は、古くから能登と繋がりが深く、うちの蔵でもずっと能登杜氏のお世話になっています。地域ごとに杜氏さんの流派も違うので、仮に人が変わるとしても、同じ地域の方にお願いするんです。
杜氏さん以下、酒造りをする人を「蔵人(くらびと)」と言いますが、いろいろな役割があります。麹造り、酒母造り、米を蒸したり、酒を搾ったり。それぞれ担当が決まっていて、その人たちの統率をしているのが杜氏さんなんです。
蔵の方針・酒の味わいを決めるのは蔵元。そして、その蔵元の思い描く酒を理解して、酒を醸すのが杜氏さんの腕、という役割分担です。
■蔵元が蔵人の仕事を兼任することはあるのでしょうか?
一昔前までは完全に分業だったんですが、20~30年前ぐらいから、蔵元が自ら杜氏を兼ねた「蔵元杜氏」だったり、後継ぎの息子や娘が杜氏さんの下で勉強しているところも、割と見られるようになりましたね。
私自身は家業を継ぐと決めたときから、酒造りの現場にも必ず入りたい、と思っていました。父は、「蔵元の娘が入るとみんなが気を使うし、雰囲気を乱さないか心配だ」とは言っていたのですが……。やると決めたら、とことんやらないと気が済まない。私の性格をよく知っているので、止められはしませんでした(笑)。
■酒造りの現場は、「夜中に働いている」というイメージがありますが……。
小さい頃から、酒蔵って不思議なところだなと思っていたんです。冬になるとたくさん人が集まってきて、賑やかになる。凍てつく空気の中、蔵の周りにはふわっといい香りが漂うんですよね。
元々日本酒というのは、神様への捧げもので、それを醸すのは「神さん事」、尊い仕事だと教えられて育ちました。だから蔵の中は、とても神聖な場所。神棚もちゃんとあります。
大きな会社だと、一年中酒造りをしているところもありますが、喜多酒造では10月~4月頃までの季節労働。昔ながらの工程で、6名ほどの蔵人で造っています。
酵母という生き物が相手なので、仕込みが始まるとさまざまな作業が続きます。酒造期は全員が蔵に泊まり込み、寝食をともにする共同生活。私も、自宅はすぐそこですが、蔵に寝泊まりします。
酒造期の毎日は、とっても規則正しいですよ。朝も早いし、まるで修行僧みたい(笑)。
朝は5時半に起きて、7時まで作業。その後、8時に朝ごはんを食べたらまた現場に戻ります。お昼休みは1時間半と、ちょっと長め。睡眠不足になりがちなので、お昼寝することもあります。
17時になると早めの夕食ですが、その後も3、4時間おきの検温など作業は続きます。最終的に一段落するのは、夜の23時頃。そしてまた、翌朝は5時半に起床です。吟醸酒など種類によっては、夜中に起きてやらないといけない工程もありますね。
■逆に、酒造りをしない春~夏は時間に余裕があるんですか?
かつては夏はビールが売れ筋で、日本酒業界はそれほど売れない時期だったんですが、最近は夏向けの日本酒もあって、おかげさまで忙しくしています。
酒造期は交代でお休みは取りますが、ほとんど外出もままならない日々。なので、他の時期は外に出る仕事を集中的にやることになりますね。代表商品「喜楽長」などを扱ってくれているお得意さんを回ったり、まだまだ知らないことも多いので、勉強のために他の蔵元を訪ねたり。
最近は、イベントに出店する機会も増えました。数年前からの日本酒ブームはまだしばらく続きそうです。イベントは週末がほとんどなので、せっかくゆっくりできる非酒造期なのに、休みがどんどん減ってしまって(笑)。
仕事以外では、最近、着物がマイブームになりつつあります。
「日本酒のイベントに着物姿で出かけたらステキだし、趣味と実益を兼ねられるかな」なんて思い、着付けを習い始めました。やっぱり、古いもの、伝統的なものが好きなんですよね。
伝統を守りつつ、女性ならではの感性をプラスする
■昨年、新商品のプロデュースも手掛けられたそうですね。
昨年、夏季限定の「若苗」という特別純米酒を造りました。「吟吹雪(ぎんふぶき)」という酒米を使うことで、爽やかな酸味と、キレのいい味わいで、夏向きのお酒に仕上がりました。
ラベルには、夏の田んぼで育つ稲のイラストをあしらって、フレッシュで涼し気な雰囲気に。
秋に出す特別純米酒の「ひやおろし」、冬の「あらばしり」も、ラベルをリニューアルしてイメージを一新しました。カジュアルな雰囲気で、若い女性にも手に取ってもらえるように工夫しています。
これから、もっともっと日本酒人気を高めていくためには、女性の感性が不可欠だという想いもあります。大学卒業後、外での職業経験が、こういった仕事でも役立っていると感じますね。
■最後に、伝統を継ぐことへの思いや将来の目標を聞かせて下さい。
モノづくりというのは、作る過程があって、フィードバックがあって、徐々に高めていくことができるのが面白いと思います。
この仕事を始めてまだ2年半ですが、「昔から、喜楽長の味が好き」「継いでくれてありがとう」と、この蔵を愛してくれる人達に声をかけられると嬉しいですね。
だから、もちろん自分なりの工夫はしたり、新商品を出したりもしますが、今までの蔵のイメージを変えたいわけじゃないんです。「私の酒」を造りたいんじゃなくて、あくまで「喜楽長の酒」なんです。
すいすいと喉を通るけれど味わいがある、飲み口はキレイだけどうまみがあるという、うちの蔵独特の味わいは崩したくない。この地で代々酒を造り続けてきた歴史を大事に守りたい、と思っています。
まだまだ周りの方々に助けてもらえる年代だと思うので、とにかく一生懸命、酒造りに取り組みたい。才能って、もしかすると最初から決まっているのかもしれないけれど、コツコツと努力を積み重ねていければいいな、と。
そうすれば、40代半ばになる頃には、自分の理想とする目標が100点満点だとしたら、95点ぐらいまではいけるんじゃないかな、と。残りの5点は……運かもしれませんけどね(笑)。
喜多麻優子
1989年生まれ。「喜楽長」の銘柄で知られる、文政3(1820)年創業の蔵元・喜多酒造の九代目候補。ミツカン、東京の酒卸での勤務を経て、2015年秋より実家に戻り、八代目の父のもとで修行中。蔵人として、酒造期の約半年間は蔵に泊まり込む。喜多酒造では毎年、約千石(一石は一升瓶100本分)の日本酒を生産している。
喜多酒造
http://kirakucho.jp/
(インタビュー/今田 壮 構成/風来堂・根岸真理 撮影/内山政彦)